千歳楼の書幅

書幅

千歳楼の歴史の中で、
多くの著名人の方々に当館にお越しいただき
たくさんの書を残していただきました。

その一部をご紹介いたします。

正面玄関の書「千歳楼」

“明治の三筆”日下部鳴鶴(くさかべめいかく)筆
中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。特定の人物に師事はなく。しかし20代の時には、貫名菘翁の書に傾倒しており、40代の時には、来日していた楊守敬のもとで碑学、六朝書、篆隷の研究を行っている。その後は中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し多くの弟子を育て。有名な揮毫の石碑に津田永忠碑、大久保公神道碑がある。

玄関正面廊下の書「餘象杣」

“幕末の剣豪”山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)筆
江戸末期から明治の剣術家・政治家。江戸の人。通称、鉄太郎。旧幕臣で無刀流剣術の流祖。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させて江戸城の無血開城を導いた。明治維新後、明治天皇の侍従などを歴任。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。

一階広間の書「十酔楼」

“美濃大垣藩の城代”小原鉄心(おはらてっしん)筆
代々城代を務めた小原家に生まれる。天保3年(1832年)11月6日に家督を相続し、藩主・戸田氏正に仕えた。大垣戸田藩は三代藩主・戸田氏西 以来、山鹿流兵学が定着していたが、鉄心は天保8年(1837年)には山鹿素水より奥秘皆伝を与えられる。[1]氏正に重用されて城代に任じられ、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行なった。家老ではなかったが「藩老」(藩の老臣)として称され尊敬されていた。十酔楼とは、1、2泊の滞在の予定だったが皆で飲めや歌えやと楽しく過ごしている間に、十日間過ごしていたという意味である。

栖鳳閣 看板「栖鳳閣」

塩谷鵜平(えんやうへい)筆
中学から俳句をはじめており、最初は子規庵の句会に参加するなど、正岡子規の門下であり、「ホトトギス」にも投稿していた。その後、新傾向俳句に魅力を感じ、河東碧梧桐に師事するようになる。鵜平の句誌であった「壬子集」と合流する形で碧梧桐が主宰する海紅が誕生し、海紅に加わる。海紅同人の自由律俳人として活躍する。地元の岐阜で「鵜川」「俳薮」「土」など多くの俳誌を刊行する。その中で1913年より発行した個人誌「土」は終生発行を続け28年間で315号まで発行した。

袖の間の書「翠嵐香」

“近代日本画の先駆者”竹内栖鳳(たけうちせいほう)筆
(たけうち せいほう、1864年12月20日(元治元年11月22日) – 1942年(昭和17年)8月23日)は、戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。本名は恒吉。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人であった。

二階大広間の書「千歳楼」

“明治の皇族” 有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみや たるひとしんのう)筆
幕末・明治の皇族・政治家・軍人。有栖川宮幟仁親王の第一王子。仁孝天皇の猶子。歓宮・大宰帥と称する。尊攘運動を支持し、禁門の変後国事御用掛を罷免され謹慎の身となるが、王政復古により総裁職となる。戊辰・西南戦争では征討総督となり、のち兵部卿・福岡藩知事・元老院議官・参謀総長等を歴任する。明治28年(1895)薨去、61才。

二階大広間の書「千歳楼」

“明治天皇の補佐” 三条実美(さんじょうさねとみ)筆
三条 実美は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。

二階大広間の書「千歳閣」

”明治時代の書の大家” 中林梧竹(なかばやしごちく)筆
文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)の日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹は号である。また剣閣主人ともいった。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。

【歴代の宿帳】

千歳楼の宿帳にはお泊り頂いたお客様の様々な書が残されております。
※ 大変貴重な物の為、一般公開はされておりません